伊藤計劃/ハーモニー&伊藤計劃/虐殺器官

久しぶりにSFものを・・・

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

「ハーモニー」を読了したのが通勤中だったのですが、著者の作品がもっと読みたいという気持ちにかられてしまい、出社前にダッシュ丸の内オアゾ丸善で「虐殺器官」を購入。おかげで若干遅刻してしまいました。その位素晴らしいと思った作品。

僕はわりかしSFは好きなのですが、それは、現在の人や社会の在り方とは異なる、でも、ありえる(ありえた)人や社会の在り方を模索していく思考実験のための方法論となりうると思っているからです。所与なものであると考えられている現実を、虚構という形で覆し、その中での人の在り方を模索するという。逆に言えば、そうではないSFはあまり好みではないというか、「それってSFである必要ないじゃん」みたいなものを読むと、ちょっとがっかりします。そのため、結果としてそれほどこのジャンルの作品を読むことはそれほど多くなかったりもします。

上記のような僕の嗜好と著者の志向がとても合っていて、貪るように読むことになったのが上記の2作品です。「ハーモニー」も「虐殺器官」も、「人を外的に合理的にコントロールできるものであったとするならば」という虚構の前提に立ち、その帰結を結末で描き出しています。そうくるか、という結論だったのだけれど、確かに論理的にはそういう帰結でありうる、と思う。

人や社会の在り方というのは現状のものが所与のものである、という風に思われがちだけれど、そうではなく、とても脆く、崩れやすいものだと僕は思っています。例えば、だけれど、3月11日に日本を襲った自然災害は、人と社会の在り方を確実に変化させつつある。それが大きなものなのか、それとも小さなものなのか、進化なのか、退化なのか、それはわからないのだけれど、僕らは人や社会の在り方の変化の渦中にいる。でも、今だけではなく、これまでもずっとそうだったのだと思います。それは、自然災害のような目に見えるイベントの後ではそれがわかりやすいだけで。

で、あるとするならば、僕たちは、人や社会の在り方について、考え続けないといけないのだと思います。どのような方向が望ましいのか、正解がない問題なのだけれど、自分たちなりに。それがどのような形であるかはともかくとして。そのような思いを強く抱かせてくれるのが、上記の2作品でした。

残念ながら、著者は本作品も含めてわずかな作品のみを残して、夭折したそうです。とても残念ですけれど、そのメッセージというのは残していかなければならないなと思います。