山崎ナオコーラ/長い終わりが始まる

不安定な時期の不安定な集団

長い終わりが始まる (講談社文庫)

長い終わりが始まる (講談社文庫)

かなり前に読んではいたのですが、読み返してみるとやっぱり著者の持ち味が出たいい作品。
人と接するのに不器用な主人公の音楽サークルで過ごした学生時代を描写した物語です。

サークルっていうのは、大学生という大人でもない子供でもない不安定な時期を象徴するような、不安定な集団ではないかな、と思います。集団というのは、会社でもなんでも何かの目的のための協力関係を構築するために組織されるものだと思うのだけれど、サークルっていうのは体育会系の部活動とは違って、その目的自体がそもそも曖昧なもの。例えばだけれど、●●サークルといっても●●を行うことが目的ではなくて、ある種、組織が存在し人間関係が構築されること自体が目的でありうるような不思議な集団だと思います。だから、一生懸命になりすぎてしまうと、「がんばりすぎ」だと指摘されるような、そういう不思議な性質をもっている。

そのような不安定な集団の中で、どちらかというと、「がんばりすぎ」だと指摘されるような不器用な主人公が、周囲と衝突し、傷つきながらも過ごしていく学生時代を淡々と描いた物語です。必要以上に主人公に感情移入させるようなタッチではなく、あくまで淡々と、そして主人公が成長した、変わったと、最後に明確な形で言われるような結末を迎えないまま、物語は終わっていきます。

そんな物語が読者に何を残すのか、と問われると、うーーん、とつまってしまうのですが、具体的なことは言いづらいのだけれど、いろいろと残るところはあるんですよね、人によって違うだろうけれど。それが、物語というもののおもしろいところだな、と思います。

これまでの著者の作品は、物語としての動きは非常に少ないながら、ぼうっとしてたら流れ落ちていくような人の心の動きを精緻に描写していくことで、メッセージを紡いでいくというスタイルだったように思うのだけれど、この作品は物語が比較的動いていきます。まあ、あくまで淡々と、なのだけれど。著者の他の作品が好きな方は絶対好きになれる作品だと思います。

絲山秋子/ラジ&ピース

人は変わることができるかもしれない。僕も、変わることができるかもしれない。

ラジ&ピース (講談社文庫)

ラジ&ピース (講談社文庫)

思わず、久しぶりに、ほろりと来てしまった作品。

著者は、エログロを厭わない女性の深淵みたいなところを描いたような作品と、思わずほろりと来てしまうような仄暗い希望を描いたような作品の、どちらもを描ける作家さん(というか中間のない感じの極端な作家さん)なのだけれど、この作品は後者です。そして、とても完成度が高いもの。系統としては、芥川賞を受賞した「沖で待つ」に近い作品だけれど、よりコントラストがあがって、闇はより深く(闇というよりは、濁ったという感じだけれど)、そしてその分だけ、光もより澄んで、そして明るい。

他人に興味を持てない、ブースの中だけが安らげる場所のラジオパーソナリティが、ふとしたきっかけで、自分の居場所をみつけてく物語・・・って書いてしまうとなんてベタに聞こえてしまうんだろう。これはおそらく僕の文才がないというのもあるのだけれど、この作品自体は本当に素晴らしいものなのだけれど、一方で、テーマとしては多分普遍的なものってことの裏返しだと思います。さらに言えば、普遍的なテーマだからといって、イージーだとは限らなくって、多分、色んな人が考えてそれでも答えの出ないテーマっていうことの裏返しってわけでもあるわけだし。

「自分のことが嫌い」「自分を愛せない」だとか、っていうのは中学生に任せとけみたいな事を言われる一方で、「自分に誇りが持てない」「自分に満足できない」っていったら30代の悩みとして正当化されるのって結局なんだかとても可笑しくって、馬鹿みたいだと思う。そういうこと思うことが多少なりともあったとしても、でも、きっと人は変わることもできるかもしれない、そして、僕だって変わることができるかもしれないな、と思いました。強い意志やめぐりあわせで。その可能性を上げていく作業を粛々と積み重ねていけばいい。

辛気くさいということ

物語が展開される群馬県の地域描写がなんとも・・・辛気くさいんですよね。それが主人公の閉塞感やいきづまりをものすごくうまく表現してて、後半の展開に効いてきます。これは、本当に筆者の心象描写における技巧のなせる業であって、群馬県自体がそういうわけじゃないと思うんだけれど(群馬県の方、ごめんなさい)。こういう残酷なまで描写ができる作家さんというのは、本当に上手いと思う。例えば、悪人での吉田修一さんの描写も、場所は九州だけれど、本当に上手いです、そしてこれもとても残酷なまでの辛気臭い描写。

結末は本当にほろっときました。やっぱりご都合主義と言われても希望はもちたいし、明るい未来を信じたい。全体のトーンはやっぱりほの暗いのだけれど、これ以上ないほどの今年一番のハッピーエンドでした。

伊藤計劃/ハーモニー&伊藤計劃/虐殺器官

久しぶりにSFものを・・・

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

「ハーモニー」を読了したのが通勤中だったのですが、著者の作品がもっと読みたいという気持ちにかられてしまい、出社前にダッシュ丸の内オアゾ丸善で「虐殺器官」を購入。おかげで若干遅刻してしまいました。その位素晴らしいと思った作品。

僕はわりかしSFは好きなのですが、それは、現在の人や社会の在り方とは異なる、でも、ありえる(ありえた)人や社会の在り方を模索していく思考実験のための方法論となりうると思っているからです。所与なものであると考えられている現実を、虚構という形で覆し、その中での人の在り方を模索するという。逆に言えば、そうではないSFはあまり好みではないというか、「それってSFである必要ないじゃん」みたいなものを読むと、ちょっとがっかりします。そのため、結果としてそれほどこのジャンルの作品を読むことはそれほど多くなかったりもします。

上記のような僕の嗜好と著者の志向がとても合っていて、貪るように読むことになったのが上記の2作品です。「ハーモニー」も「虐殺器官」も、「人を外的に合理的にコントロールできるものであったとするならば」という虚構の前提に立ち、その帰結を結末で描き出しています。そうくるか、という結論だったのだけれど、確かに論理的にはそういう帰結でありうる、と思う。

人や社会の在り方というのは現状のものが所与のものである、という風に思われがちだけれど、そうではなく、とても脆く、崩れやすいものだと僕は思っています。例えば、だけれど、3月11日に日本を襲った自然災害は、人と社会の在り方を確実に変化させつつある。それが大きなものなのか、それとも小さなものなのか、進化なのか、退化なのか、それはわからないのだけれど、僕らは人や社会の在り方の変化の渦中にいる。でも、今だけではなく、これまでもずっとそうだったのだと思います。それは、自然災害のような目に見えるイベントの後ではそれがわかりやすいだけで。

で、あるとするならば、僕たちは、人や社会の在り方について、考え続けないといけないのだと思います。どのような方向が望ましいのか、正解がない問題なのだけれど、自分たちなりに。それがどのような形であるかはともかくとして。そのような思いを強く抱かせてくれるのが、上記の2作品でした。

残念ながら、著者は本作品も含めてわずかな作品のみを残して、夭折したそうです。とても残念ですけれど、そのメッセージというのは残していかなければならないなと思います。

かけら/青山七恵

かけら

かけら

表題作の他に2編の短編を収録。
いずれの作品も、事件というほどのない出来事が、例えば、寡黙な父親と二人で旅行に行ったり、結婚式前に以前の恋人の事を思い出したり、結婚直後の家庭にちょっと風変わりな少女が居候することになったり、そのような出来事が起こす心のさざ波を、著者は巧みに描き出しています。

僕は、小さな出来事で感じるかすなか感情の揺らぎの積み重ねが自分自身を構成していく、と思っています。もちろん、事件と呼べるような大きな出来事で感じた感情が人生の転機になる事は当然だと思うのですが、そうではない、覚えていられないような小さな出来事や体験で感じた感情だって、自覚することはないにせよ、それらが積み重なって自分自身を形づくっていくものだと思います。
自分自身を劇的に変化させる程のこともない感情の揺らぎというのは、それを表現することは難しいし、そのこともあってか、人はなかなか覚えておくことができません。だけれど、自覚することはなくとも、そのような感情の揺らぎの積み重ねが自分自身を構成していることは間違いないし、緩やかに自分自身の変化につながっていく。

そのような小さな感情の揺らぎを表現する、あるいは言語化して、覚えておくことができたら素敵だろうなと僕は思っていたのですが、そういう才能には恵まれていないようでなかなか、そういう事はできていません(この読書blogを書こうと思ったのもそういう気持ちが契機だったのですが)。しかしながら、この小説で著者は見事にそれを表現していると思います。
著者の描き出す心のさざ波は、僕のような感情の揺らぎを表現するボキャブラリーを持たない読者に、それの表現の在り方を示してくれると共に、それが、自分自身を構成する一つの重要な要素であるということを示してくれるものだと思います。

舞城王太郎/ディスコ探偵水曜日

かなりご無沙汰になってしまったのにも関わらず、こんな表紙の作品でどうかと思いますが・・・。

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈中〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈中〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈下〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈下〉 (新潮文庫)

※ ちなみに表紙は萌えてますが、中身はそんな感じではないです。そしてちょっとエログロ入ってます。村上春樹+αくらい。

今年これまで読んだ小説で、というか、ここ数年来でおそらく一番の衝撃的だった作品です。
著者の集大成的な作品と言われているのですが、物語の、そして物語るということの可能性を追求し、そしてその新たな地平を開いた傑作だと思います。
そして、物語るということが生きるということとパラレルであるのであれば、生き方だって意志の力で変えることができるという勇気をもらえる作品。


前提としてなのですが、この物語は、そこまで露骨ではないのですが、登場人物が所謂、物語の作法やコンテクストに言及することの多い、メタ物語のような色彩が濃くなっています。例えば、著者がモデルになった登場人物が登場したりです。そして、ここまではよくある現象なのですが、このことによって、著者が物語を作るという事と、登場人物が生きていくという事が、読者にとって強く意識されます。そして、読者自身が生きていくということも。

そして、この物語では、予告なく(物語の作法でいうと伏線もなく)、時空は折れ曲がるし、死者は甦る、パンダが日本語をしゃべります。そして、作中で登場人物が物語の作法に何度も言及するのにも関わらず、コンテクストは簡単に裏切られ、ストーリーは迷走します。(厳密にいうと、物語序盤から伏線は貼ってあるのですが。すなわち、この物語
では「何でもありだ。」という伏線が)。

このように書くと、物語として破たんしているように思えるのですが、何故か破たんしていない。その破たんするか破たんしないかのギリギリのラインのせめぎあいに作者は挑戦し、そしてラインを拡張させることに成功したように思えます。これは著者の技量によるところも大きいと思いますが、それ以上に作中で強調されているのは、意志の力です。おそらく、物語を破たんさせなかったのは著者の強い意志、すなわち、世界に対する優しいまなざしなのではないかと思います。

本当に、正直、物語というのがここまで自由な形を取りうるものだとは、僕自身はまったく思いつきませんでした。無茶苦茶なストーリーで、文脈は無視され、それでも物語は破たんしない、強い意志さえあれば。そして、物語るということとパラレルな生きるという事や世界だって、もっと自由な形になりうるものだ。ということを教えてくれる作品です。過剰なほどのエログロな描写なのですが、読後感が何故か凄まじくさわやかなものでした。

そして、本当に面白い。こんなに物語の作法を裏切りまくっているのにも関わらず、ページを繰らせる力がすさまじいんです。何故かわからないですが。

物語というメディアの可能性を広げた、というか、この物語のおかげで、多分小説という文化自体が寿命が延びたというと言い過ぎだけれど、本当にその可能性の深さを僕は再認識しました。また小説を読み続けたいと思える作品です。本当は文学史に残る作品だと思うのですが、そこまで広く評価はされていないのは残念です(その理由ははっきりしているのですが)。

ちょっと友人に勧めにくいのが難点だけれど(笑)、本当にものすごい傑作に出会えたものだなあと思います。

そして、この本を読んだときにヘビーローテーションだったのがこのアルバム。

つまんね

つまんね

たまたまだったのですが、とてもこの小説の雰囲気にマッチしててとてもよかった。このバンドも友人にはすすめづらいけど(笑)、新しい才能がどんどんでてくるのはすごいなあと思います。

村上春樹/1Q84 Book3

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

book1&2の1年後というスパンで上梓された本作。とある理由で、手元になかったbook1&2が戻ってくるのを待って、読み返してからbook3を読んだので、このタイミングでのレビュー。

オーウェルへのオマージュはどうなったんだ」。
というのが、現時点(初読後2週間経過)の率直な感想です。

著者は僕にとってとても大切な作家で、そしてとても大好きな作家なのだけれど、敢えて批判的な立場にたって書いてみたいと思います。というのは、それが著者の望んでいることのような気がするからです。

著者の作品は現在、批判されにくい環境にあると思います。まず、book1&2は100万部を超えるヒットになったみたいだし、本作もきっと広く受け入れられる(=売れる)ことだと思います。作家としての著者の評価も世界的に上昇していく一方です*1。2点目に、著者の小説は言わんとしているところが明確ではない(ベタな言い方をすれば解釈するのが困難)。言わんとしていることが不明確なものに批判しようとものなら、その解釈が甘いという批判返しをされかねない。3点目に、筆者の小説はエンターテインメントとして確かに面白い。核心に迫りかけて、そして遠ざかっていく、物語の進め方の技巧は完成されていて、一度読みかけると途中でやめることを許さない(というのがみんなにあてはまるかは分からないけれど、少なくとも僕はいつもそうです)。

そのような環境におかれること自体が、著者自身が全く持って望んでいないのではないかと思います。少なくともbook1&2の時点ではオーウェル1984年を露骨にオマージュしながら、そう主張しているように僕には思えました。

前置きが長くなったのだけれど、だから敢えて批判します(何だか変な感じだけれど)。

僕にとって、book1&2を読んでの最も大きな関心事は、「空気さなぎというのは何に対するワクチンだったのか」ということです。そして、物語が社会に対して与えるべき役割は何なのか、オーウェルを何度も引用して言いたかったことはそこなのではないか、と思います。そして、book1&2では長い時間をかけてその核心に迫ろうとしていたように思います。

book3には、book1&2には確かにあったそのような社会に対する視点が全くないように思います。ふかえりも戎先生も殆ど姿を現さない。天吾と青豆の個人的な物語になってしまっているような気がします(さらに言ってしまえば、この点は読者の解釈に委ねられると思うのだけれど、月が2つある天吾の内面の中だけの物語ですよね)。book1&2を読んで、その後でboo3を読むといわゆるセカイ系の小説を読んでいるような気持ちになってしまいました。もちろんセカイ系というのは言い過ぎで、それで無意識だとか内面と外面の入れ子構造だとか、そういう視座に対する深い洞察があって、いいものだと思うのだけれど、でも、それって「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」以降、何度も何度もやってきたことじゃないのかな、と思います。

無論、社会という視座についてはbook1&2で十分やり尽くしていてキミはそれを読み取れないのか、という意見をいただくこともあろうかと思います。それはもちろん、そうなのかもしれなくて僕の解釈が浅いのかもしれないのだけれど、僕は、book1&2の時のプロモーションも含めたフィーバー(現実社会において発生した現象)と、book1&2に描かれた世界観をパラレルに感じて、メディアミックスどころじゃない、現実と小説が交錯するただならぬ興奮を感じていた僕としては、もう少し、社会という視座を、「空気さなぎとは何に対するワクチンだったのか」、という話を深堀りしてもらいたかった、というのが本音です*2

*1:そういえばノルウェイの森が実写化されるみたいですね。これはこれで楽しみです。好きな楽曲がカバーされる感覚で、例えカバーがイマイチでもオリジナルが損なわれるわけではないし、カバーがよかったらそれは当然嬉しいですしね。

*2:もう一つ思うのは、book3の位置づけって何なのだろうという事です。もしかしたら、著者にとってはbook1&2で物語は終わっていて、book3はファンサービスなのかもしれないな、と思います。1つは恋愛小説としてのハッピーエンドの示す事による、もう一つは、古くからのファンに昔から取り組んできたテーマを示してあげることによる。でも、さらにもしかしたら、book3は単なるつなぎなのかもしれないなとも思います。月が一つしかない世界に戻る事によって(社会に戻ることによって)どうなるのかを描くための。book4があって、そこで著者にとって未知の領域である「月が一つしかない世界に戻る事によって(社会に戻ることによって)どうなるのか」が描かれるのであれば、それはとても読んでみたいと思います。続きが描かれるべき物語だと思います。

万城目学/鴨川ホルモー

鴨川ホルモー (角川文庫)

鴨川ホルモー (角川文庫)

著者の作品を読むのははじめて。
周囲の評判がよかったので読んだのですが、京都を舞台にした学生が主人公な作品というだけで親近感が湧いてしまうのを差し引いても面白かったです。っていうか、総人って久しぶりに聞けただけで、ちょっと嬉しくなってしまう。基本的におもいっきりバカな小説で、やっぱり森見登美彦と比較はしてしまうのですが、彼よりも素直な感じがします。ちょっとネタバレっぽくなってしまいますが、これ以上ないくらいのハッピーエンドだし。

自分語りになってしまうのですが、京都で学生を過ごしたという事は、僕にとってとっても貴重な出来事だったという事を強く再認識しました。周囲の友人達もそのようなことをよく言っているのですが。正直、どうせだったら東京で学生時代を過ごした方が、就職活動なんかにもよりコンシャスだっただろうし、もうちょっとイケメンになってコンパとかやってたかもしれない。でも、学生時代というモラトリアム(純粋にそうだとは言い難いのですが)、京都というロケーションで過ごした事で、宝物のような青春の思い出が、社会人として生活を送る場所とは別のところに、きちんとしまっておいておけているような気がします。そして、京都に戻ればいつでもそれを取り戻すことができるような気にすらなっています。この小説を読んで鴨川デルタや四条河原町の光景を思い出して、そういう思い出をちょっと取り出したような気分になりました。

本作は映画化されていてBase Ball Bearが主題歌を担当しているみたいですね。Base Ball Bearも僕は大好きでちょっと年下のバンドなんだけど、青すぎるほど青くて素敵なバンドです。映画も見てみたいなあと思います。