青山七恵 / ひとり日和

ひとり日和

ひとり日和

2007年の作品(発表は2006年)。著者の作品は初読。

埼玉から出てきて東京の親戚の家に居候することになったフリーターを、その家主であるおばあさんとの関係を通して描いた作品。

正面から読み解くならば、青年の成長を描いた話なのだろうなと思います。そして、そのように読み解くのであれば、おばあさんの存在や、その主人公との関係が、それを描く上でのうまく説明装置としてよく機能しているように思います。

だけれど、僕はこの作品を成長の物語だとするのに何となく違和感があります。
例えば、この作品の帯に石原慎太郎の「自立を描いた話」という評が掲載されていたのですが、その評に全く同意できません。確かに本作品の結末では主人公は正社員となり、そして居候生活から脱して、一人暮らしを始める。のだけれど、それのどこが自立なのだろうか。というか、自立というからには、「何かに何らかの形で依存していた状態」を脱したと認識しているはずなのだけれど、その「何か」とは、そして「何らか」とはなんなのか、僕にはさっぱり分からない。

逆に言うならば、この作品と通して強く感じたことは、「自立」や「成長」というのが現代社会ではものすごくあやふやになっているということです。前段の「何か」というのは一般的には親で、「何らかの」というのは経済的にだと思うのですが、現在社会においては経済的自立というのは、ある意味非常に簡単です。バイトでもすれば、10代でも一人暮らしなんて簡単にできてしまう。と、同時に大学院などに進学すれば、20代後半でも経済的支援を受けなければ暮らしてゆけない。
このように経済的な自立が「自立」であるとイージーに受けとめられないのであれば、何が一体自立なのか、そして何をもって「成長」したとするのか、非常に曖昧だと思います。さらに言えば「自立」や「成長」を青年期の目標とするのならば、現代社会に青年期を生きるものは、それは何かからすら自分で考えなければならない、非常に難しい生を歩まねばならないのではないかと思います。

脱線ついでなのですが、心理学を多少なりともかじっていると、この手の話というのは、青年期のアイデンティティーの危機、そして模索、確立と読み解くことができてしまう。正直、僕もこの作品を読んだ時にエリクソンを思い出したし、実際、ネット上で検索してみると、心理学者(?)のそのような書評をいくつも見つけることができました。
だけれど、そのような描写は、作品を全く豊かに彩ることができないなと、個人的には思います。この作品に関わらず理論家が書いた書評というのは、面白いものももちろんあるのだけれど、ワンパターンなものも非常に多い。それは何故かというと、作品を理論というスキーマで単純に「認知」しているに過ぎないのにそれを「理解」であると錯誤してしまい、それ以上に思索を進めることをしないからだと思います。
文学作品というものが、著者の手にとどまりつづけるものではなく読者に広く開かれている事はバルト以来自明の事ですが、であるからゆえに、文学作品を読む際には認知にとどまって喜んでいては、その半分も楽しんだことにならないと感じます。