ジョージ・オーウェル/一九八四年

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

村上春樹(「1Q84」)と伊坂幸太郎(「ゴールデンスランバー」)の二人から、しかもほぼ同時に引用されるという、偶然にしても意味を探したくなるような作品。SF好きな人には言わずとしれた名作なのだけれど、僕も、そのために読んでみました。

ジャンルとしてはSF。オリジナルが1949年の発表なので、もう60年前の作品なのですが、全く古臭さを感じません。というかまだまだ彼が想定した科学に現代が追いついていない感じですらあります。同時に、内容的にもコンテンポラリーな要素を多く含んだものだと思います。

この話を読んで思い出したのは、実は大澤真幸の議論です。彼の議論のうち比較的新しいものの中に、第三者の審級の撤退した、言い換えると近代における神のように社会を俯瞰的に見下ろし規範を命じる存在が不在となったかのように見える現代においても、第三者の審級が回帰しているという指摘があります。すなわち、規範から解放されたように見える現代においても、自由に振舞うことが規範化されている。例えば、ホリエモンビルゲイツなどの少し前にカリスマと呼ばれているものの存在を借りて。
この議論から大澤はさらに、我々は結局のところ、神のように社会を社会を俯瞰的に見下ろし規範を命じる存在を我々は希求しているのではないか、監視社会についても我々は忌避すると同時に欲望しているのではないか、例えば、blogで私生活をつまびらかにするのもその欲望の表れではないか、と指摘しています。

本作で描かれているのは、監視社会が実現した社会ですが、それが成立しえた理由は、大澤の議論にならえば、我々が神の代替としてそれを臨んだからという事になるかと思います。ビックブラザーの実存が描写されないのも、第三者の審級がもつべき超越性を維持するため、ということでしょうか。であるとするならば、村上春樹が描こうとしたのは・・・というところを今考えています。

ともかく、途中冗長な部分もあるけれど、物語としても展開が面白くて一気に読みきってしまいました。

※ 大澤真幸の検索で来た方へ:すごいタイミングで引用してしまいましたが、全くの偶然です。僕は彼の在籍していた学部・院の出身で、講義やゼミを受講もしていたので、ものすごくショックです。