三浦しをん/まほろ駅前多田便利軒

まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)

まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)

読後にほっとした爽やかな気分になれる小説。肩に力を入れずに読める大衆小説、の傑作だと思います。

本当に等身大、というか身近というか、そういうアイコンに囲まれてゆっくりと物語は進んでいきます。主人公は離婚して独り身、その相棒は失踪者、そして登場人物も風俗嬢やヤクザばかり、さらには物語の舞台も、まほろ市という町田を思い起こさせる地方都市。このような一癖はあるのだけれど、それ以上のひねくれ感はなくて、そして魅力的な登場人物が人情身溢れるとしかいいようのない物語を展開させていきます。それでいて、こういう健康な(?)小説にありがちな押しつけがましさも感じられないのは著者の技術の高さだと思います。

殺伐とした社会を殺伐と描く事、それはそれで価値があることだと思うし、そういう小説も僕は好きです。だけれど、たとえそれが現実だとしても、殺伐としたものを直視し続けることができるほど人間は強い存在ではないのだと思う。だからご都合主義のハッピーエンドだと言われようと、こういう小説を人は、そして社会は求め続けるだろうし、僕自身も現実逃避なのかもしれないけれどこういう小説も読み続けていくのだろうと思います。

村上龍

半島を出よ〈上〉 (幻冬舎文庫)

半島を出よ〈上〉 (幻冬舎文庫)

半島を出よ〈下〉 (幻冬舎文庫)

半島を出よ〈下〉 (幻冬舎文庫)

北朝鮮による福岡占領、という現実味があるのか、ないのか、よく考えてみてないと判断つきかねる事象を描いた物語。少なくとも本著を読んだだけだと十分にありえると思ってしまわせるところが、著者の取材・調査能力の高さだと思います。

著者は、徹底的に読者、あるいはわが国にとっての、「他者」を描き続け、そして相対的に「自己」なり「わが国」なりの特性を浮き彫りにしていくという手法をとっている作家だと僕は理解しています。そういう相対主義的な手法自体がトラディッショナル過ぎてパラドクシカルな意味でわが国の伝統に囚われてしまっているだとか、著者が忌避し相対化する対象である「わが国」のビジネスカルチャーに著者自身どっぷりつかってしまっているじゃないか、とかそういう批判があるとは思うし、僕自身そう思ったりもするのですが、一方でそういう手法をある種の到達点まで至っているのではないかとも思います。

相対化するための「他者」の象徴として、本作では北朝鮮兵士という圧倒的なまでの「他者性」を描いています。それだけでも自身を相対化するための情報源として、とても有用だと感じいってしまう部分があります。
そしてそれを際立たせるのが、語り手が章によって変化する物語の構成です。これだけ壮大な物語なので全体像を描ききるにはこのような構造しかなかったという物語的な制約条件もあった(あるいは全てを北朝鮮兵士の視点で描ききるには情報量が少なかった)とは思うのですが、この事によって北朝鮮の「他者性」が際立っているように感じました。

ラストがちょっとイージーだったとか、警鐘を鳴らしすぎ感がありすぎて鼻につくとか、色々とあるのですが、物語としても続きが気になる十分魅力的な作品です。読んでいて楽しい気分になるとか、そういう類のものではないですが、それでも楽しんで読むことができました。ウジウジとわりと批判めいた事を書いている感想になってしまっているのですが、単に僕の性格の悪さが現れてるだけだと思います。

柴崎友香/その街の今は

その街の今は (新潮文庫)

その街の今は (新潮文庫)

著者のこれまでの作品と同じく、大阪の女の子の日常を描いた作品。僕が読んできた作品とちょっとだけ違う点は、主人公(語り手)の年齢が少しだけ高くて、28歳、ちょうど僕と同い歳だという事です。激しくも熱くもないのに、むしろテンション低めなくらいなのに、encourageしてくれる不思議な作品。もっとたくさんの人に読んでもらいたい作家さんです。

著者の作品を読んでいつも感じる事は日常の可能性。いつもと変わらない風景や何気な出来事、そして些細な人との出会い、つながり、会話。そんな日常生活が著者の描写にかかると、やわらかなで爽やかな光を帯びて、輝きだします。

なぜそんなに魅力的に日常を描き出せるのかいつも不思議に思っていたのだけれど、僕は本作でそのヒントを見出すことができたように思えます。大阪の過去の写真の収集を趣味としている主人公。主人公は何気なく「ここが昔どんなんやったか知りたいねん」というのだけれど、うまくいえないのだけれどそこには好奇心を超えた、過去未来を問わず存在するものに対する興味(interest)が隠されているような気がしました。

正直著者の作品はものすごく好きで、もっと評価されるべきだと思うし、評価されなくてもいいからもっと多くの人に読んでもらいたいと心から思います。本当に素晴らしいです。

伊坂幸太郎/SOSの猿

SOSの猿

SOSの猿

いつもいつもエンターテインメントとしてレベルの高い作品を、物凄いペースで発表しつづける著者の作品。本作も全く期待を裏切らず、一気に読めてしまえました。

上述の通り、エンターテイメントとしては高いレベルを維持しつつ、著者が次のステップを模索しているようなところがあるように感じました。「オーディボンの祈り」や「重力ピエロ」などで顕著で、「モダンタイムス」で一旦答えが出された、「決定論的なものにどのようにして抗うか」というテーマを継承しつつ、どちらかというと「決定的論的なものはどのように形作られるか」にフォーカスを当てたような作品。そして本作では解は提示されないままにハッピーエンドを迎えます。

以前から思っていたのだけれど、著者は小説を書くという行為と、超越論的な存在によって決定論的な運命が導き出されるという世界観をパラレルなものとしてみているような気がします。著者にとって小説を書くという事は自分の意のままに登場人物を動かしてゆく事であり、それが超越的な存在が世界を意のままに動かしているという世界観につながっていくのかな、と。そして著者の描き出す完璧に整合性のとれた物語構造がそれに説得力を増させているように思います。

珍しく他の人のレビューを読んでみると、結構読みづらかったという声があるのですが、僕はあまりそういう感覚を覚えませんでした。近作が好きな人は是非読んでみては、と思います。

山崎ナオコーラ/人のセックスを笑うな

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

筆者の作品を読むのは初めて。表題作のほかに「虫歯と優しさ」という短編も収録。

「オレ」という一人称を使う美大生の主人公と、20歳年上の女性の物語。そして、まがう事なく恋愛小説です。性描写もあります。ここまで書くとなんだかギトギトした印象を与えてしまうのかもしれないですが、そういう類のものではないです。そういう類のものが苦手な僕が言うのだから間違いないと思います(シュリンクの「朗読者」で十分過剰だと感じた)。

むしろ全体的に淡いトーンで進んでゆく物語。物語描写の合間に主人公の語りを入れて、短いパラグラフを積み重ねる構成は、ワンカットが短くてモノローグの多い映画を見ているような感覚に陥ります。
そしてその主人公のモノローグがとても美しいです。基本的には何だか他人事みたいなモノローグではあるのだけれど、時に憂いを帯び、時に熱をはらみながら、ゆっくりとしたペースでの語りは、一言で言えば解説にあるとおりセンスがいいし、なんていうのだろう、温かみがじんわりと伝わってくるような気がします。

上述の通り、主人公が「オレ」という一人称を使うのですが、吉田修一氏の作品を読んだ後で本作を読んだからかもしれませんが、何ていうか「オレ」という一人称を使うのがふさわしくない位、線が細くて繊細で、とても印象に残りました。吉田修一氏の作品に登場するような男性も魅力的なのだけれど、自分に足りないものを突きつけられているようでちょっと辛いのですが、解説で触れられている通り「女性化」が進んだような本作の主人公と本当に対照的な印象を受けました。

筆者のほかの作品も読んでみるのが楽しみになる作品でした。

吉本ばなな/哀しい予感

哀しい予感 (角川文庫)

哀しい予感 (角川文庫)

著者の作品は好きでかなり読んでいるのだけれど、何故か読んでなかった作品。
オリジナルは1988年発表。なのでもう20年も前の作品。10年一昔前だとすれば、もう2昔も前の作品になります。けれど、そういう意味での古さは全く感じません。

傷つきやすさや繊細さや心の動きを繊細に描き出した作品で、言うまでもなく佳作。ともすれば昼ドラみたいに(とは言え僕は昼ドラを見たことが一度もないのだけれど)なストーリーラインで、筆者の清潔感のある文体や描写がそれを過剰なドロドロした感じではなく、エンターテインメイントでありつつもアートな領域に押しとどめているように思います。

だけれど、この作品が素晴らしい作品であるがゆえにこそ、もう少し早く読んでおきたかったというのが正直な感想です。僕がこの小説を10代の頃に読んでいたら、せめて学部生の頃、いや院生でも構わないのだけれど、とにかくもう少し若い頃に読んでいたら、もう少し違った読み方ができただろう、もっと言えばもっとのめりこむ事ができたのだろう、と思います。近親相姦だとか淡い恋愛感情だとか、そういうモチーフがもともと得意ではなかったとしても。

なんていうのだろう、今の28歳でリーマンやっている僕は、そういう傷つきやすさや繊細さを残しながら大人になってしまったところを正直なところ否定できない自分がいます。これは傷つきやすい少年を気取るとかそういう事は全くなくて、正直まったくその事を肯定的に捉えられていません。周囲からはウジウジしているように思われている(のかどうかはよく分からないけれど)んじゃないかと気になるし、そう思われてたとしたら多分社会人というかサラリーマンの世界ではマイナスであるし。自分でもなんでこんなことをイチイチ気にしてしまうんだろうとか思うし、それが仕事のパフォーマンスが影響してしまうから本当にたちが悪い。そういう自分から変わろう、変わろうと思っていた現在の僕が本作品に出会ってしまったがゆえに、何だか以前の世界に引き込まれそうになって、心から楽しむ事ができなかったように思います。

否定的な書きぶりになってしまったのだけれど、作品がいいものであるがゆえにこそ、そういう思いが強くなってしまうのだと思います。逆に言えば今の僕でしか感じ得ない感情や作品もあるわけだから、今後も小説を読んでいきたいという思いを強くしました。

大崎善生/パイロットフィッシュ

パイロットフィッシュ (角川文庫)

パイロットフィッシュ (角川文庫)

著者の作品は初読。友人に薦められて読んでみました。とても興味深かったです。

パイロットフィッシュとは、飼育したい熱帯魚を入れる前に水槽に生息させる魚のこと。熱帯魚は環境に敏感な事が多く、真新しい水槽ではうまく生きていけないことが多い。パイロットフィッシュが生息し、その糞などからバクテリア類が繁殖し生態系が完成することによって、熱帯魚が生きていける環境が整えられる。そして、環境が整えられた後のパイロットフィッシュは捨てられることが多い。
(正確な引用ではないです)

そして、本作では、「記憶の中には存在するけれど、今、目の前にはいない他者」の象徴として「パイロットフィッシュ」という言葉が用いられています。そして、そのような(記憶の中にしか存在しない者も含めた)「他者」の集合体として、今の自分があるというのが、著者の伝えたいことだと思います。そしてもちろん、自分も記憶を媒介して他者の一部となっている。

分かってはいるつもりだったけれど、人の在り方にとって他者との関わりが必須なものだということを改めて強く感じました。つまり、たとえ、その関わりによって傷つくことや損なわれるものがあったとしても、人はその在り方ゆえに、どうしても他者を必要とする存在なのだということです。その事から、逆に言えば、どんな人間だって他者から必要とされうるということ、そして他者の一部となりうるということにもなるのだと思います。

さらに印象に残ったフレーズを引用しておきます。

感性の集合体だったはずの自分がいつも間にか記憶の集合体になってしまっている。(中略)人間が感性の集合体から記憶の集合体に移り変わっていく時、それが四十歳くらいの時かなあと思うんだ。

ここでいう感性というのは自己の象徴、記憶というのは他者の象徴だと思います。ここでは四十歳くらいにそのように変化すると記してあるけれど、僕はそうは思わない。おそらく、生まれた時からずっと他者との関わりや影響の中で自分が培われていったと思うから。

文体がちょっと硬いというか、こなれていない部分もあり、また、著者の伝えたいことが明確すぎるため若干説教くさく聞こえる点もあるのですが、物語の展開のスピードはちょうどいいテンポで読みやすかったです。著者のほかの作品も読んでみたいと思います。