柴崎友香/次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?

次の町まで、きみはどんな歌をうたうの? (河出文庫)

次の町まで、きみはどんな歌をうたうの? (河出文庫)

著者の作品は物凄く好きです。何度かこのblogにも書かせていただいていますが、著者の作品に出会えたことは、僕にとって今年1,2を争う大きな出来事です。

表題作にしても、もう一編収録されている「エブリバディ・ラブズ・サンシャイン」にしてもそうなのだけれど、タイトルの言葉の選び方一つで既に(よくガーリーだと指摘される※1)僕の感性を物凄く刺激します。そして、もちろん、内容も著者独特の世界の描写がいかんなく発揮された佳作。
特に何も起こることがなく、だらだらと世界の描写が続く、というと「ああ、芥川賞っぽいね」の一言で片がつけられてしまいそうなのだけれど、著者の筆にかかると、どんな世界だって輝いて、キラキラしたものとして描き出されていく。それが本当に魅力的です。

うまく思ったことを表現できないので、唐突感はあるのですが、ここまで書いていて僕の中で、「筆者が世界を魅力的に描き出すことができるのは、その題材がモラトリアム的な日常を生きる大学生や社会人なりたての人たちだからではないか、キミがそういう世界に未練を残してるのは分かっているのだ。」という疑問が生じてきました。しばらく考えてみたのだけれど、僕はそうは思わない。と、いうか、僕はそうではないと信じたいと思います。著者が絲山秋子さんみたいな、もう少し年齢層が上がった人達を題材とした作品を描いたとしても、きっと魅力的に世界を輝かせるのだと信じたいと思う。それは、僕みたいな平凡なサラリーマンの日常であっても※2、描き方、捉え方によってはキラキラと輝いたものになるのだ、と僕が信じたいからだと思います。

単なる日常を魅力的に描き出す感性は、作家だけではなく、生き難い現代社会を生きる僕たち一般人にこそ必要なのかもしれないと思います。

※1 でも不思議なことに草食系だとはあまり言われない。
※2 僕の現在の仕事、シンクタンクで政府から受託した調査研究をこなす研究員という仕事、には僕自身誇りをもってやっているし、やりがいをもてています。でも・・・というところですね。

桜庭一樹/砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

筆者の小説は初読。
僕には、初めて読む小説家の作品を、わりかし斜に構えて読んでしまう悪い癖があるのですが、この作品は面白かったです。ライトノベルにカテゴライズされてた過去があったのはちょっと信じられないです。

ストーリーは、中学生の少女を主人公に子供の虐待や引きこもりなど、現代社会のアイコンを散りばめつつ、テンポよく進んでいきます。

砂糖菓子や形而上的な問いや虚言に表象される衒学的な世界観と、実弾や金銭に表象される実学的な現代の生を生き抜くための世界観。この2つの世界観が対比して描かれています。タイトルでも分かる通り、一見すると、前者が後者に及ばない、あるいは、前者より後者を価値とするかのような物語のように読めます。でも、僕は(若干の希望を込めてだけれど)、筆者の描きたかった事はそのような事ではないのではないか、と思います。

むしろ、この小説から僕に伝わってきたことは、以下の2点でした。

  • 前者も後者に押し潰そうとされながら必死に抵抗しているという事
  • 後者だけでは現代社会は捉えきることは不可能であるという事

つまり、前者の世界観の脆弱さやそれゆえに保護されるべき存在であるという風な主張をしているのではなく、現在社会を捉えていくために必須のものであり、唯一の武器なのであるという主張が込められた作品ではないかと、僕が受け止めました。

物語自体は、テンポもよく、グロテスクな表現や軽い文体に賛否はあるのだと思うのだけれど、僕自身はとても楽しんで読むことができた作品です。

梨木香歩/西の魔女が死んだ

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

著者の作品は初読。友人からのオススメで読んだのですが、想像以上にいい作品でした。

全体的に繊細なニュアンスで描かれている日常生活の描写がとても美しいです。特に中盤の魔女と主人公との田舎での幸せな日常の描写が特に印象的でした。丁寧で美しくて地に足の着いている、小川洋子さんを思い起こさせるような日常の描写です。自然の中で自然のものを自然なやり方で食しながら生きるという、必ずしも僕はそういう嗜好の持ち主ではないのにも関わらず、そういう生き方も魅力的だなと思わせてくれるような文章です。筆者が実際にイギリスで暮らした経験が生かされているだろうな、と思います。

僕が特に感銘を受けた点は、この作品がそういう美しい日常をただのサンクチュアリにしなかった点です。思春期の主人公が自分と社会とのつながりを必死で模索しているようのとパラレルなように、この小説自身も単に美しいものを描くだけではなく、(不可避に「汚らわしいもの」を内包する)社会とのつながりから逃げず、むしろ必死にリンクさせようとしています。正直なところ、そのような試みをしなかった方が物語としての完成度は高かったかもしれません。逆に言えば、そのような要素を盛り込む事によってある種の突っ込みどころや脇の甘さが否めなくなっているのも事実です。事実なのだけれど、たとえ不器用なものであってもそのような部分に果敢に挑戦する著者の姿勢を僕は心から称賛するし、逆に不器用だからこそ、とても勇気をもらえる作品になっていると思います。

児童文学とカテゴライズされる作品なのかもしれないけれど、大人が読んでも十分にインプリケーションのある作品だと思います。少なくとも28歳にしてまだ自己と社会の関係を整理しきれていない僕にとっては、色々と考える契機になる作品でした。

ロバート・A・ハインライン/夏への扉

夏への扉[新訳版]

夏への扉[新訳版]

SFの名作。ずっと読みたかったんだけどなんとなく縁がなくて、1984年が面白かったのをきっかけに、改めて探してみました。確かエヴァの監督も桜井亜美(この人はまだデビューの頃の作風でやっているんだろうか?)との対談で好きだと言っていたような気がします。

SFなのだけれど小難しいわけではなく、とても読みやすく、そして面白い作品。
「(著者が本著を上梓した)1950年代というのは素朴に科学や未来を信じることができるいい時代だったんだ」というのが読後すぐの印象でした。でも、すぐにそうではないのだろうという事に気がつきました。よく考えてみればその時代だって冷戦の気配の忍び寄る時代だったわけで、物語をこのように動かしたのは著者の未来や人間を信じる強い信念なのだろうと思います。もちろん、ご都合主義っぽい部分は垣間見えるわけで、アメリカ社会がハッピーエンドを好む社会なのはあるのだろうけれど(フィッツジェラルドがハッピーエンドを強要されたとか、そういうのも分かるなあと)。

希望を語る事が容易な時代なんてないのだと思います。今が50年前と比較して困難な時代だと現代に生きる我々が語るのは被害妄想に過ぎないと思う。でも、今が50年前と同じくらい困難な時代だということは言えるかも知れない。だとしても、著者が本作で綴ったように希望を語る努力を忘れてはならないと思いました。僕自身はわりとすぐにペシミスティックな発言をして周囲を失望させてしまう事が多いのですが。

訳もいいのだと思うのですが、冒頭の下りは、SFとは信じられないくらいリリカルで美しく、とても印象的でした。

森見登美彦/太陽の塔

太陽の塔 (新潮文庫)

太陽の塔 (新潮文庫)

著者の小説を読むのは「夜は短し・・・」に続いて2作目。

内容は「夜は短し・・・」と共通するところが多い、というか主人公もヒロインチックな人も、殆ど設定や性格が同じです。ダメ学生×天然美女学生×京都。逆に言えば、同じくらいサクサク読める、読みやすい作品です。偉大なるワンパターンですね。

「夜は短し・・・」や本作の主人公を草食系男子あるいはその変種と評している言説を結構みるのですが、絶対そうではないと思うし、著者もそう思われたくないんじゃないかと。圧倒的に異なるのは清潔感だし、おしゃれさだし、異性に対する思い(彼女は欲しいという気持ち)、です。こういう風に真面目に記述するのも何だかバカみたいだけれど。でも、本作や「夜は短し・・・」がヒットした理由を考えてみると、物語としても面白さはもちろんあるのだろうけれど、そういう風に受容されたからというのもあるのかもしれないと思います。確かに、(ガツガツしない(できない))可愛らしさという点ではちょっと共通するのかもしれない。そういう意味では時流に乗ったとは言えなくもないのかなと思います。ともかく、愛すべき人たちではある。

京都に出張に行った時に、三条大橋のスタバで読んだのですが、すっごい懐かしくてよかったです。京都で学生生活を過ごしてよかったな、と思いました。物凄くバカバカしいのだけれど、物凄くよく分かるし、共感もします。でも今出川通りにオシャレなカフェがたくさんできていて、びっくりしました。本作の登場人物たちみたいな人にとっては、ますます生きづらい環境になっているのではないかなと思います。でも、下宿や大学内にしぶとく生き残っている事でしょう。

ふと思ったのだけれど、著者に主人公の5年後みたいな小説を書いてみてもらいたいなと思いました。できれば、思いっきりバカバカしく書いて欲しいです。言われなくてもバカバカしく書きそうですが。だって、著者がこのまま学生ばかり描き続けたら、バカバカしさは学生の特権みたいな感じになってしまう!社会人だってバカバカしくしたいですよね・・・。

ジョージ・オーウェル/一九八四年

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

村上春樹(「1Q84」)と伊坂幸太郎(「ゴールデンスランバー」)の二人から、しかもほぼ同時に引用されるという、偶然にしても意味を探したくなるような作品。SF好きな人には言わずとしれた名作なのだけれど、僕も、そのために読んでみました。

ジャンルとしてはSF。オリジナルが1949年の発表なので、もう60年前の作品なのですが、全く古臭さを感じません。というかまだまだ彼が想定した科学に現代が追いついていない感じですらあります。同時に、内容的にもコンテンポラリーな要素を多く含んだものだと思います。

この話を読んで思い出したのは、実は大澤真幸の議論です。彼の議論のうち比較的新しいものの中に、第三者の審級の撤退した、言い換えると近代における神のように社会を俯瞰的に見下ろし規範を命じる存在が不在となったかのように見える現代においても、第三者の審級が回帰しているという指摘があります。すなわち、規範から解放されたように見える現代においても、自由に振舞うことが規範化されている。例えば、ホリエモンビルゲイツなどの少し前にカリスマと呼ばれているものの存在を借りて。
この議論から大澤はさらに、我々は結局のところ、神のように社会を社会を俯瞰的に見下ろし規範を命じる存在を我々は希求しているのではないか、監視社会についても我々は忌避すると同時に欲望しているのではないか、例えば、blogで私生活をつまびらかにするのもその欲望の表れではないか、と指摘しています。

本作で描かれているのは、監視社会が実現した社会ですが、それが成立しえた理由は、大澤の議論にならえば、我々が神の代替としてそれを臨んだからという事になるかと思います。ビックブラザーの実存が描写されないのも、第三者の審級がもつべき超越性を維持するため、ということでしょうか。であるとするならば、村上春樹が描こうとしたのは・・・というところを今考えています。

ともかく、途中冗長な部分もあるけれど、物語としても展開が面白くて一気に読みきってしまいました。

※ 大澤真幸の検索で来た方へ:すごいタイミングで引用してしまいましたが、全くの偶然です。僕は彼の在籍していた学部・院の出身で、講義やゼミを受講もしていたので、ものすごくショックです。

柴崎友香/フルタイムライフ

フルタイムライフ (河出文庫)

フルタイムライフ (河出文庫)

恥ずかしながら著者の小説を読み始めるようになったのは今年に入ってからなのですが、今のところ僕にとって今年最大の発見です。
本作もとても好きです。

美大を卒業した主人公がOL(って死語っぽいよなあ)が初めて10ヶ月の間について描いた物語。主人公は、お金もないし希望した仕事にもつけていないし彼氏もできないし、そういう本当になんてことはない生活を送っているだけなのだけれど、それを何だかとっても魅力的に、羨ましくすら思えるような生活に思えてしまう。それが本作の、そして著者の最大の魅力だと思います。

世界をキラキラとしたものに変えるためには、周囲が理想の状況である必要はなく、自分の振る舞いを変える必要すらなくって、おそらく自分の視線を変えるだけでいいんだろうな。そして、そういう人の存在は周囲を心地よくしてくれるんだろうな、と思います。

相変わらず関西弁で淡々と世界を周囲を自分を一人称で綴っていく主人公。一人称だけれど、主人公の直接的な心象描写はほぼなく、彼女の周囲への描写から淡くそれが伝わってくるような文体です。そうなのだけれど、不思議なことに、直接的な心象描写では絶対に伝わってこないことまで伝わってくるような気がします。世界を語ることは自分を語ることでもある。そういう事を強く感じます。そして、そして自分を語ることは形作ることでもある。だから、世界をキラキラしたものとして語ることができたら、自分をキラキラとしたものに変えていくことができる。みたいな三段論法が成立するんじゃないかってところまで考えが飛躍してしまいました。

そういや、主人公が初めてボーナスもらって「こんなもらえるんだ」って感動する下りがあるのですが、僕も学生が長かったんで初めてのボーナスで「なんでこんなにもらえるんだ」って相当感動したものを覚えています。そういう気持ちっていうのは失くしてしまいそうだけど、でも大切にしてた方が豊かな人生をおくることができるだろうなー。